
以前働いていた職場に、佐藤さん(仮名)という人がいた。
彼は毎年、夏の終わりに一週間ほど休暇を取り、渡仏する。職場の皆には必ずお土産を買ってきてくれるので、嫌な顔をする人はいなかった。推定50代の独身貴族ということもあり、「向こうに彼女がいるんじゃないか?」などと冷やかす人もいたが、至って真面目な彼はそれを否定した。彼のお目当ては美術館。10年位毎年、オルセー美術館に行っている…という噂があった。
佐藤さんの所属する部署に移動が決まった私は、仲間に羨ましがられた。
佐藤さんの席の近くには大きな書庫がある。本来は仕事用なのだが、専門職的な位置付けの彼はそれを自由に使うことができ、半分以上はフランスで購入してきた図録や画集などを置いていて、同じ部署などの親しい人たちには「自由に見ていいからね」と、そのコレクションを解放していた。移動した私が初めて挨拶をしに行った時も、そう言われて嬉しかった。
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私も映画を趣味としてから10年くらい経っていた頃だったと思う。
周囲に映画の話ができる人がおらず、ブログをやったりやめたりを繰り返していた。自分の「見たて」に自信が持てそうな、でも素人から脱却はできなさそうな、自信のない頃。美術は詳しくないものの、興味がある展覧会には行くので、美術好きの人の話を聞いてみたいと思った。
ある日、私は佐藤さんに話しかけてみた。
「佐藤さんは美術がお好きなんですよね」
自分は絵を描くことはできないのだが、美術は好きで…と彼は語り出した。好きなことの話は大体長くなる。相手もそれに興味があって、自分が教えられることがあれば、喜ばしいものだ。私も映画が好きでオタクの端くれなので、気持ちはよくわかる。だが、長い話を聞きながら、あれっ?と思った。
なかなか「美術の話」に到達しないのだ。フランスには何回行った、どの時期に、どの航空会社で、どこに泊まった。美術館巡りをするのにはお得なチケットがあって、〇〇でそれが入手できる。あの美術館には何回行った、何が飾ってあった、その図録を現地で買った…。フランスに一度も行ったことがない私にとっては、興味津々のことばかりである。なので、これらの”情報”は、とてもありがたい。いつか役に立つかもしれない。でも、私が聞きたかったのは「美術の話」だった。
「私も東京で『オルセー展』に行ったことがあるんです。ものすごく大きな絵があって、どうやって運んだんだろう…って思ってたんです」 タイミングを見計らって話題を変えた。
やっぱり船かなぁ。あんなに大きなものを運ぶのは大変だろうなぁ。飛行機で運べるものには限界があるんじゃないかなぁなどと話しているうちに、私も自分の考えを伝えたくなった。
美術展の醍醐味って、”美術館という建物”をどう使い倒すか、ですよね。天井の高さ、壁の色、質感も含めて、専門家はどんな風に「作品の素晴らしさ」を人々に伝えるのか、そこが見所だと思うんです。有名な作品は図録や映像(TV放送等)で、どんなものかを予め知ることができます。知っているものをさらに肉眼で見たい、と思わせるようなところが技術だと私は思っていて、もちろん画家の才能や人気が人々を魅了していることに間違いはないのですが、現代でも話題になるのは、芸術の魅力を人々に伝える力が優れているからだと思います。どんな順番で、どんな高さで、どんな額縁を使って作品を並べ、年表や解説文を配置し、魅せて行くのか。角を曲がった時の視界がどう変わるのか、先の展開を読めるか読めないか、構成の全てを含めてが「展覧会」で、その総合的な味わいがとても魅力的なのです。
…そんなようなことを、一気にまくしたてた。
そして、青ざめた佐藤さんの顔に気づいた時、しまったと思った。
彼は美術をそんな風に楽しんでいなかったのだ。
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映画ファンでも映画を何本観たかを自慢する人がいる。
1年で◯本観た。…それで?と、私は思う。確かに数多く観ていれば、経験を積むことになる。覚えることもあるだろう。でも、だから何。鑑賞した作品で心を動かしたり何かを考えたりして、実生活に役立てたいと思っている私にとって、鑑賞数だけで威張られることに、ほとんど意味を感じない。観る、観た(鑑賞の予告、報告)、映画館に行った(行動報告)も然り。でも、それは私の勝手な考えであり、思い通りに観られる時間の少なさからのジェラシーかもしれない。
中には、「月に2回映画を観ること」が生きる喜びだったり、「某映画祭に毎年参加すること」を目標にしていたり、「年末に自分にとってのベスト10を考えること」で映画に真摯に向き合える時間が嬉しい人もいる。”数”をもって、行動への価値を認識している人を、バカにする気はさらさらない。
佐藤さんも、「毎年渡仏すること」や「今年もオルセーに来た!」という経験を、人生の中で重ねることが目標だったのかもしれない。映画ファンだと「観た、観ない」で話が終わる人が多くてわかりやすいので、そういう場合は深い話は最初からしないのだけど、佐藤さんに関しては美術の内容にも踏み込める美術ファンだと勘違いしてしまい、完全に私のミスであった…。
佐藤さんは、絞り出すような声で言った。
「703さんがそんなに美術に詳しい方だとは知らなかった…」
フランス通で周囲に尊敬されている彼にとって、美術について一言も言及できないのは、屈辱的なことだったのかもしれない。私は瞬時に恥をかかせてしまったかもしれないことに気づき、佐藤さんの渡仏経験の多さを褒め称えつつ、そそくさとその場を離れた。
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映画の場合も、作品の内容に触れることに興味がある人とない人がいる。
私はどちらかというと「どう思ったか」、「どう解釈したか」に関心が高く、それを表現したいと思っているので、このブログでは作品のあらすじや キャスト・スタッフ情報、公開日等の詳細は、特に載せていない。情報や宣伝については、公式サイト(配給会社)や 映画情報サイトでプロのライターが書いているものの方が詳しいし、正確である。素人の個人の最大の武器は「感想」じゃないのか、と私は思っている。
感想を書いているから偉いとか理解が深いという訳ではなく、正直、私は今も自信があるわけでもない。だが、映画で心を動かされたことに喜びを感じているのは事実であり、同じ気持ちの人がいるなら、友だちになりたい。